自分がうつになりまして。

うつ病になってしまった30代男のリアルな話を書いていきます。

その13~やる気がおきません~

こんにちは、こんばんは。

 

ため息がでて、やる気がおきない日が続いております。

 

何かをしなきゃ、と思うんだけど、何をしていいか分からない。

何かストレスを感じてるんだけど、何に対してストレスを感じているのか分からない。

 

迷子にでもなった気分です。

 

仕事は思うように進められない。

原因も分からない。

こんな調子で、また自殺願望も出てきてしまって。

 

「このボタンを押したらすぐ死ねます」というボタンがあったら、きっと迷いなく押してます。

 

 

どうしたらいいんだろう。分からないなぁ。

 

 

 

その14に続くことを祈って。

 

その12~閑話休題~

こんにちは、こんばんは。

 

社会復帰して約1年。

うつが再発しかけております。

 

ため息がふえた。

お腹が痛くなることが増えた。

変な頭痛がする。

 

ついこの間まで、体調よかったのにな。

油断は禁物、ということかな。

 

ちょっと大きな仕事にメンバー入りして、役割も大きくなってしまったから、そのプレッシャーもあるのかもしれないけれど。

 

休職前からずっと悩んでいたことが、ここにきてまた悩みの種になってきたせいもあるのかも。コミュニケーションの問題。

 

ストレス耐性、下がってしまったのかな。

しばらくは頑張りすぎないようにしよう。

 

 

その13につづく。

その11~過去をふりかえる③~

こんにちは、こんばんは。

 

少し間が空いてしまいましたが、今回は高校生時代のことを書いていきます。

 

①無気力、無関心

中学時代の親の借金問題と愚痴でメンタルはズタボロ。

高校受験が終わるまでは、受験勉強に集中していたので持ちこたえられましたが、それを終えてしまうと、全ての気力が抜けました

勉強もせず、外にも出ず、暇つぶしにゲームばっかりしてました。

 

部活はせず、授業を受けて、帰ってぐーたらするのルーチンでした。

 

また、何に対しても関心が無くなっていました

ファッションも、勉強も、人間関係も、自分の将来や目標ですら、関心を持てませんでした。

 

いつも、自分のなかにぽっかり穴が空いたような、空虚な感じを抱いていました

 

②頭がうまく使えない

興味は持てずともそれなりには勉強して、周りの認識では「出来がいい」と言ってもらえるくらいの結果は出していました。

 

その評価は、テストの点と順位によるもの。

学年でトップ3に入ることもありました。

 

私がやっていたのは、どの教科もひたすら書いて手で覚える脊髄反射学習です。

定期テストなんて、先生が問題集からちゃちゃっと作る程度の問題しか出ないので、ひととおり勉強すればどうにかなりました。

でも、頭では分かっていなくて、手が覚えてるっていう感じなんです。

テストのときは、問題を読んでいる途中、問題文を読み切る前に勝手に手が動き出して、答えを書いていってるんです。

「この問題の答えはコレ」と手で覚えちゃってるんですね。

 

でも、このやり方って応用が利かなくて、ちょっとでも問題を変えられると分からなくなるんです。

学校のテストは成績がいいけど、模試になるとできない。

そういうタイプでした。

 

つまり、私はテストの点を取れるだけで、本質は全く理解していないということです。私は、当時からそのことに気づいていました。

でも、「定期テストはいい点とれてるしいいだろ」くらいに流してしまっていたんです。対策を考えるのも、やり方を変えるのも面倒臭いと感じてしまってました。

 

その時の怠惰が、今でも影響してしまってます。

今もそうなのですが、その当時から、なんとなく「うまく頭が使えてないな」と感じることがあります。

うまく言えないのですが・・・整理ができない、論理的なつながりを理解できない、考え方が極端・・・とかも症状?としてはあるんだけど、やっぱり「本質が分かってない」と表現したほうがしっくりきますね。

 

これを書いてる今も、自分が何を書きたいのか、何を伝えたいのか、つかめてない感じがしてます。

乱文って、こうやってできあがっていくんでしょうね笑

 

③家の経済状況を気にした生活

借金はなくなったとはいえ、生活が豊かになるわけじゃありません。

貧乏暮らしなのは変わらずでした。

 

幸か不幸か、無関心で物欲もなかったので、普段はそこまで気になりませんでした。

ただ、修学旅行の時は違いました。

周りはみんな、それなりにお小遣いを受け取って、すきに買い物をしていました。

でも、私は家の経済状況を気にして、遠慮しながら最低限の買い物だけしました

 

自販機の缶ジュースを買うのを躊躇って、結局買わず、喉をカラカラにして、声がかすれた状態で過ごしたくらいです。

ここでも、みじめな思いでした。

 

一般的には楽しいイベントのはずの修学旅行ですら、これですからね。。

とにかく、何やっても楽しくなかったです。

 

 

青春って、何ですか?

 

 

その12につづく。

その10~過去をふりかえる②~

こんにちは、こんばんは。

 

過去の傷をほじくろうキャンペーン第2弾(表現が悪い)

ということで、今回は中学生時代のことを書いていきます。

 

①学費が払えない

父親はパチンコ、タバコ、酒、やめない。

母親、タバコ、やめない。愚痴ってるだけで節約の仕方を考えない。

貧乏が続くわけですよ。

 

そして、ついに私の学校の学費が払えないという状況になりました。

すでに就職していた姉に助けてもらったり、ひどいときには学校の先生にたて替えていただいたこともありました。

 

遅れた学費の支払いは、私が封筒を持って学校の事務に届けるわけですが、すごくみじめでしたよ。

 

まわりの子たちは、普通に生活して、お小遣いをもらって、音楽やファッションを楽しんだり、塾に行ったり、部活を楽しんだり、友達と遊びに行ったり。

なんで自分だけ、こんなみじめな思いをしているんだろう

そんな風に思うようになりました。

 

②重荷の共有

母親は思ったことは何でも口にします。

それが、自分ひとりの胸に抱えてほしかったと思う内容であっても。

 

あるとき、金融機関から借金をしていることを告げられました。

父親には内緒で、母親の独断でやったことでした。

普段から子供に愚痴を聞かせるくらいですから、一人で悩みを抱えるなんてできなかったんでしょうね。

だから、借金の事実を私に話して、重荷を背負わせたかったんだと思います。

 

中学生の私にお金をどうこうできませんし、母親としても別にどうこうしてほしかったわけじゃなくて、借金の事実を知らせることで、精神的な荷物を半分こしたかったんでしょう。

 

その後、私は借金取りからの電話に対応させられました

借金を返せない人がやる上等手段ですね。子供に電話に出させて、自分は息をひそめる。

 

目の前にいる母親の顔色をうかがいながら、

「お母さんは家にいません。僕しかいません」

嘘をつくんですよ。あの時の感情を表す言葉は、今だに見つからないです。

 

③修羅場・借金取りがくる

いつまでも借りたお金を返さない、しかも連絡がつかない。

当然、借金を回収するため、人がくるわけですよ。

 

休日の日中、母親の内職を手伝っていた時でした。

借金取りが来ました

 

「いつまでも逃げられると思うなや。80万、耳を揃えてとっとと返して」

 

借金取りの男性が言い放ったその言葉は、今でも忘れはしません。

 

両親ともにいましたが、当の母親はだんまりなので、父親が対応しました。

当然すぐに返すことなんてできないので、月々かならず返すと念書を書いて、帰ってもらいました。

 

そのあとは、当然修羅場です。

好き勝手遊んでいた父親にも問題があるとはいえ、借金なんて寝耳に水ですからね。

姉も呼んで、これからどうしていくか話し合いをしました。

 

④借金完済

それから数ヵ月後でした。

偶然にもまとまったお金が入り(悪事を働いたわけじゃないですよ)、借金を返すことができました。

 

 

借金がなくなっただけで、生活が大きく変わるわけではないですが、それでも、もう借金取りの電話にでなくていい。

ため息がでました。

 

でも、ため息と一緒に感情も出て行ってしまったのか、それから高校まで、ほぼ感情というものを感じることがなくなりました。

 

 

その11につづく。

その9~過去をふりかえる①~

こんにちは、こんばんは。

 

以前の記事で、ちらっと家族の問題に触れました。

今回から何回かに分けて、もう少し掘り下げた話・・・子供時代を振り返り、どういう育ち方をしたのか、どういう育てられ方をしたのか、過去どんな出来事があったのかについて書いていきたいと思います。

 

だいぶ暗い話になっていくと思います。苦笑

 

 今回は、小学生時代のことを振り返ろうかと思います。

 

①自分のこと。

 

まず、非常に物覚えが悪い

 

今振り返ると、小学生のころは発達障害だったんじゃないかってくらいに物事を理解するのに問題のある子どもでした。

体育にしても勉強にしても、周りが一度教わってすっとできることが、私はすぐできなかったです。できるようになったとしても、できるまでにすごく時間がかかる。

 

小学2年のとき、クラス全員が九九の暗唱をできるようになるまで、一人一人先生の席まで行って「1×1=1、1×2=2、…」って言わされたんです。

私はビリっけつ。みんなが「まだできないの?」という視線を投げかける中で、緊張しながらなんとか暗唱したのを覚えています。

 

小学3年の図工の時間では、出来上がった作品を先生に見せるように、と言われた言葉の意味を理解しておらず、見せに行かなかったことをクラス全員の前で叱られました。

 

次に、友達がいない

 

内弁慶で、外では極力話さない、目立たない。

話しかけられたら話すけど、自分からは輪に入らない。

だから、友達なんてできませんでした。

 

スポーツが苦手だったことも、一因かもしれません。

特に男の子はそうだと思いますが、子供同士が仲良くなるのって、一緒にサッカーしたとか野球したとか、スポーツがきっかけだったと思うんです。

でも、私は一緒のチームになったところで邪魔にしかならないし、それなら最初から遠慮しておこうっていう考えだったので、仲良くなるきっかけがありませんでした。

 

こんな感じで、全く楽しくない学校生活だったんですが、我ながらよく不登校にならなかったなと思います(笑)

 

②親のこと。

 

どちらもバブル世代。

お金はたくさんあったのに、馬鹿みたいに使いまくって、貧乏になったアホの典型です。で、自分大好き。

これで情報全部網羅した気がするんですが、もうちょっと書いてきます。

 

父親はパチンコ好きで、給料が出たら小遣いがなくなるまで毎日通います。

また、酒も好きで、水やお茶の代わりにビールや焼酎を飲みまくってます。20リットルの焼酎3本が1カ月もちません。

子供のころに遊んでもらった記憶はありません

 

母親は元スナックのママで、働いてたころは相当稼いでいたみたいですが、結局ほとんど父親のパチンコ代に消えて、当時の稼ぎは一円も残っていません。

でも、当時の感覚を引き摺っていて、貧乏になっても節約ができず、無駄と思える買い物をするので(高いブランドものを買っているわけではないのですが、ちょこちょこ無駄遣いしている)、貧乏から抜け出せない。

そして過保護。高齢出産で私を生んだからという理由もあるでしょうが、どこに行くにも自分がついていって、自分の目で行動を見ていないと気が済まない、子供を縛り付けるタイプの過保護です。

 

③貧乏生活

 

母親がスナック勤めをしているうちは、まだお金に苦労はしていなかったのですが、私が小学校低学年の頃に仕事を辞めてから、一気に貧乏になった覚えがあります。

父親の酒とパチンコは続いていたし、両親ともヘビースモーカーで、1日でそれぞれ2箱なくなるくらい吸ってましたからね。

稼ぎが減ったのに、以前と同じだけ消費してたら、そりゃ貧乏になりますよね(笑)

 

そんな中でも、食べるものはきちんと用意してくれたので、その点は感謝しています。

 

④愚痴のはけ口になる

 

貧乏になってからというもの、今に至るまで、20年以上にわたって母親の愚痴を聞き続けています

 

他の旦那はもらった給料を全部わたして、そこから自分の小遣いをもらうのに、まず自分の小遣いを抜くなんてどうかしてる。

(父親は給料が手渡して、自分の小遣いを好きなだけ抜いてから母親に渡していた)

 

これまで自分が稼いだ金は、旦那に全部パチンコに使われた。その金を貯めておけば、今頃は家の1軒くらい建てられてたのに。

 

こんな旦那と一緒になったばっかりに、こんなに金に苦労させられてる。本当に失敗した。なんでこんな苦労させられなきゃいけないんだろう。

 

・・・こういった内容の愚痴を、小学生の時分からずっと聞かされてきました。

学校から帰ってから、父親が帰宅するまでの間、母親は「あー頭痛い頭痛い」と目の前でアピールしていました。タバコをふかしながら。

 

お金の問題なんて、小学生に解決できますか?

夫婦の問題なんて、小学生に解決できますか?

できませんよね。ただ、はけ口になって、ストレスをぶつけられる日々でした

 

殴る蹴るよりたちが悪いかもしれません。

暴力を振るわれれば、自動相談所が動いて保護されれば、まだ逃げ場があります。 

でも、精神的なストレスをぶつけられるのって、周囲は気づきません

身体に痣ができるわけじゃないから。誰も助けてくれません。

 

私は学校は好きじゃなかったけど、家も好きじゃなかった。

だから、不登校にすらなれなかったんです。家は避難所じゃなかったから。

 

⑤言い訳に使われる存在

 

うちの場合、夫婦問題と金銭問題はセットなので、ぶっちゃけ離婚すれば両方解決します。

だから、ある時子供ながらに聞いてみました。

そんなに苦労してるなら、離婚したら?って。

 

そうしたら、あるあるかもしれませんが、こう言われました。

「離婚したいけど、お前のために我慢してる

 

母親は年齢的にも働き口がないし、経済的に父親に頼らざるを得ないのは分かります。

でも、無理して一緒にいて、子供に愚痴を言うのが、子供のためでしょうか?

少なくとも、私はそうは思えません。

 

愚痴を言われ、言い訳の材料にされる。

何もできない私には、もうこの状況にひたすら耐えるしか選択肢が残されていませんでした

 

⑥自分が一番、子供は二番

 

口では、「子供が一番」と言っています。自分の命より大切な存在だと。

たぶん、嘘はついてないです。本人としたら、本気でそう言っていると思います。

 

でも、行動が伴ってないんです。

 

私は昔から喘息もちで、ひどいときには息が吸えなくなって、呼吸困難で命を落としかけたこともあります。

小学生のときは、汗をかいて冷えて、風邪をひいて、そこから喘息に発展してしまうことが結構あり、学校を休む日も頻繁でした。

 

そんな持病を抱えた私の前で、両親して毎日タバコをふかしていました

いくら昔とはいえ、タバコが肺に悪い程度のことは常識だし、受動喫煙という言葉もメディアに取り上げられていたし、本当に子どもを思うのであれば、喘息を患っている子供を前にしてタバコを吸ったりするでしょうか

 

ある時、タバコの煙に耐えられず、タバコをやめてほしいと親に言ったことがあります。その時の返事は、

「タバコだけが唯一の楽しみなんだから、これはやめられない」

でした。

 

子供の命より、自分の楽しみをとったわけです。

 

口ではいくら子供が一番と言っていても、自分を優先させている以上は自分が一番と考えているとしか思えませんね。

別に、自分が一番でもいいと思うんです。

でも、それなら「子供が一番」なんて言わないで、自分が一番なんだと認めてほしいです。

 

 

こういった生活を送ったことが、その後の人格形成に大きく影響したんだろうなあ、と改めて思ったところで、今回は終わろうと思います。

 

その10につづく。

その8~そして復職へ…~

こんにちは、こんばんは。

 

だんだん暖かい日が増えてきましたねえ。

てか暑いわ。

 

気温で情緒が不安定な今日この頃ですが、今回の話いってみたいと思います。

 

半年以上に及ぶ通院を経て、復職するに至ったわけですが、

復職するにあたってどういう問題があったのか

復職に至るまでの話を書いていきたいと思います。

 

休職して体は休められたけど、心は意外と休まらない、そんな期間もあった。

けれど、図書館で過ごしたりカウンセリングを受けたりするうちに徐々に回復し、いよいよ復職の話がでるまでになりました。

 

ここで問題になるのは、急に無理をすると再発の恐れがあるということ。

だから、復職しても、最低半年は経過観察中という形で、負荷は極力減らした形で過ごさせてもらうのがいいとのことでした。

リハビリ期間みたいなものですかね。

 

そうはいっても会社もボランティア集団ではないので、落としどころが難しい部分もあるとは思います。

そのため、復職については基本的には会社で定めた復職規定によるようです。会社の規定はそれぞれ違って、例えばこんなのがあるみたいです。

 

・ケース1

復職したその日から完全にフルタイムで戻ってもらう(休職前と同じ働き方)

 

・ケース2

最初は週3日、半日ずつ会社に行って、徐々に時間を増やしていく。その間は仕事はさせない代わりに給料も出ず、傷病手当でまかなう。週5日フルで会社にいられるようになったら、復職扱いにする

 

・ケース3

最初は週3日、半日ずつ会社に行って、徐々に時間を増やしていく。その間も仕事はするが、負担にならない程度の量をこなしてもらう。もちろん働いた分は給料が出る。会社に行っていない日については、傷病手当でまかなう。

 

私の場合は、ケース3のやり方で復職しました。

勤めている会社の規模が大きくないため、そういった規定がきちんと作られておらず(それもどうかという話ですが)、医者のアドバイスに従った復職の仕方をしようということになったためです。

社長も「一番やりやすい形で復職してもらってかまわない」と仰ってくれたので、無理なく戻ることができました。

 

このように、復職そのものはスムーズに進んだのですが、復職するまでがちょっとしんどかったです(汗)

復職となれば「いつから復帰するか」という日取りを決めないといけないわけですが、これに関しては医者も会社もどっちもボールを持ってくれなかったんです。

 

会社は医者が判断するものなのだから、医者に決めてもらうもの、という立場

医者は会社の規定に従うものなのだから、会社との話し合いで決めるもの、という立場

 

両者とも相手に決めてもらおうとしようとしてたんですね(汗)

どっちの言い分も分かります。

 

会社からしたら、医者が「この人は休職が 必要だから休ませてください」と診断書を書いたから、それを根拠に休職が必要と判断して休ませたわけです。

だったら、復帰するときも「この人はもう働いて大丈夫なので復帰していいですよ」と診断してほしいというのはもっともな主張です。

 

医者からしたら、復職は会社の規定に従うべしと思っているので、詳細な日取りまで医者が口を出すのではなくて、会社と話し合って決めなさいと考えているわけです。

再発防止の観点からみても、メンタルに影響するのは復帰してからどういう働き方をするかであって、いつ復帰するかは関係ないですからね。

 

わかるんです。

わかるんですけど、メンタルをやられて休職した私が、間に挟まれてる状況はやめてほしかった(笑)

 

結局、こんな感じで解決しました。

 

①医者とのトーク

私:復帰日を決めるにあたって、2週間後くらいをめどに会社と話をしたいと思っている。そのくらいであれば、復帰しても大丈夫そうか?」

医者:大丈夫。

私:では、会社と復帰日を決めるので、決まったら診断書を書いてほしい。

医者:了解。

 

②会社とのトーク

私:医者と話して、2週間後くらいから復帰の許可をもらっている。そのあたりで調整したい。

会社:それなら、〇月〇日にしようか。

私:わかりました。その日付で復職許可の診断書を書いてもらいます。

会社:了解。

 

③医者とのトーク

私:会社と話して、復帰は〇月〇日に決まりました。復職許可の診断書を書いてもらえますか?

医者:了解。いちおう、無理させられないように、「働くのは週3日、1日4時間までにしてね」って書いとくね。

 

すげーめんどくさかった(笑)

日取りさえ決まっちゃえば、あとはもう何の弊害もなく、スムーズに進みました。

問題になったのは、これくらいでした。

 

 

復職しても、しばらくは大したことはできず、給料泥棒みたいな過ごし方をしていましたが、それでも居場所があるって安心するものですね。

私が不在の間、留守を守ってくれていた人たちに感謝しつつ、少しずつ恩返ししていこうと思いました。

 

その9へつづく。

その7~カウンセリング~

こんにちは、こんばんは。

 

前回の記事にて書いたように、私はコミュニケーションのことで悩んでいました

診察の際に、先生に悩みを話してみました。

すると、先生からカウンセラーの指導の下、アサーショントレーニングを受けてみてはどうか?と勧められました。

 

アサーションとは、「自分のことも、相手のことも大切にしながら、自己表現する方法」です。

(私は指導してもらっただけの専門知識ゼロの人なので、詳しく知りたい方は他のサイトや本で見ていただくといいと思います)

 

自己表現のタイプには3つあって、ざっくり書くと

タイプ1:自分の主張ばっかり通すタイプ

タイプ2:相手を気にして自分の主張ができないタイプ

タイプ3:うまく会話できてるタイプ

 

私の場合、相手のことを気にしすぎて、気持ちや意見を言えないという意味で、自己表現ができていないタイプ2が該当しました。

主張ができないだけではなくて、話し方が言い訳がましいとか、「話したところでどうせわかってもらえない」という諦めの気持ちが残ることもあるそうです。

 

はい、全部当てはまります(笑)

 

そんなわけで、こういった自己表現の仕方が改善されないと今後もコミュニケーションうまくできない
→またストレスをため込んでうつ再発

 

・・・なんて未来が容易に想像できたので、カウンセリングを受けてみることにしました。

最初は、カウンセリング代で金儲けするつもりじゃないか?といった考えもありました。私が通ってたクリニックでは、30分のカウンセリングで3,000円くらいかかるので、お財布には痛いですし。

でも、何度も再発して、そのたびに通院に薬にとお金をかけるよりはいいかな?ということで、それなら受けてみようという結論に達しました。

 

結果的にはカウンセリングを受けて気持ちは楽になりました

 

レーニングはいろいろやってもらったのですが、それだけではなくて

・カウンセラーに話を聴いてもらえたこと

否定されなかったこと

こちらのペースで、せかさず話をさせてもらえたこと

こういったことが大きかった気がします。

 

レーニングについては、うまく説明できるほど理解はできていないので、詳細な説明は省きますが、

「マインドフルネス」

「レーズンエクササイズ」

を教えてもらいました。

 

レーニングに共通してるのは、周りのことを、どんな小さなことでもいいから気づくということですかね。

 

静かだと思っていた外から、虫やカエルの鳴き声が聞こえるな~とか。

家の庭に赤い花が咲いてるな~とか。

マクドナルドの看板が新しくなったな~とか。

 

最初は自分の外側のことに気付けるようになって、慣れてきたら自分の内側、感情や考えに意識を向けていけるようになる・・・そうです。

感覚的な話だし、自信をもってなるとはいえないんですが(汗)

 

 

話をカウンセリングに戻して、一番の収穫は自分の気持ちに気づけたことでしたね。

 

カウンセリングでは、前回の通院からそれまでの間に起きた心の変化について尋ねられて、「そのときどういう気持ちだったか」を確認されます。

最初は苦しいです。

自分の中で気持ちや感情を制限するというか、何も感じなくなっていたり、感じたけれどすぐ忘れていたり、どこか麻痺したような状態になっていたので。

 

いつも、なんとなく返事はしていましたが、でも、モヤモヤした感じがしていました。

答えていることは嘘じゃないんだけど、本質をついていない。

本当に伝えたいことはそんなことじゃない。でもわからない。

 

自分の内側に目を向けるって、すごく難しいですね。

数ヵ月もの間、ずーーっとこんなモヤモヤが続いていました。

でも、ようやくピンとくる答えが見つかりました。

 

私は、普通になりたかったんです。

 

普通に会話ができる。

普通に遊べる交友関係が築ける。

普通の人生を歩める。

 

周りが「当たり前」にできていることを、自分もできるようになりたい。

ただ、それだけだったんです。

 

気づくまで、すごく時間がかかりました。

気づかせてくれたカウンセラーの先生には、とても感謝しています。

 

 

その8につづく